6月は世界中で「LGBTプライド月間」とされています。プライド月間の由来は、1969年6月のニューヨーク市に起きた「ストーンウォールの反乱」という差別的な警察のポリシーに反対したデモです。それ以降、6月はLGBTのコミュニティとしてパレードやデモを行う期間、そして個人的に「カミングアウト」(アイデンティティを告白する)期間となりました。このような活動で、ゆっくりながらアメリカと西ヨーロッパの社会はLGBTの方に対する意識を高め、最終的に結婚などの権利が認められました。以下は僕のLGBTの「G」(ゲイ:男性同性愛者) でありながら、真言僧になったストーリーです。
アメリカのど真ん中にあるネブラスカ州でカトリックの家族に生まれました。親や学校の先生の宗教法人はまぁまぁ厳しかったですが、一番の厳しさは自分の中から生まれました。幼いころから、神父さんになることを希望していました。今思えば、若い頃から女性に興味がなくて、当たり前に感じただけかもしれません。
思春期が来ると、自分の中に男性に対する性欲が現れて、神父さんの夢が複雑になってしまいました。もちろん同性愛を表現することがカトリックで罪に教えられているのが知っていたので、できる限り無視するようにしていました。
性欲を無理に抑圧すると、変な行動で漏れてしまうことが多いです。内なる恥が偽善といじめになって、外からその行動を覗いた人にとってわかりにくいことだったかもしれません。秘密で表現すると、罪悪感があんまりにも強くて、自殺を考えることもありました。
高校二年生の時、教会で働いていた助祭さんに全てを告白してみました。「それは、悪魔のせいかもしれない」とすぐ言って、その悪魔を祓うために、修道院で1週間のリトリートを勧められました。
1週間続いて悪魔祓いの祈りを受けたにもかかわらず、セクシュアリティは変わりませんでした。丁度「もう駄目だ」と感じているとき、神学の先生が授業中に卒業生が書いた記事を読みました。その卒業生は高校のときに男性が好きと気づいて、ずっと隠して、神父さんになる修行を10年ぐらい続けました。やがて、ハーヴィー・ミルクという70年代のLGBT活動家と政治家のスピーチに刺激を受け、カミングアウトしました。それから、満足できる自分らしく、神様の愛と人の愛でいっぱいな人生が始まりました、と。
それを読んで「そうか、これは戦うことじゃなくて、大切にするべきことなのか」と初めて気づきました。一回だけそのメッセージを聞くことで人生が大分変わりました。
翌日、車の事故に遭いました。有難いことに怪我はありませんでしたが、人生のもろさに気づいて、待つわけにはいかないと思いました。友達や親にすぐカミングアウトしました。本当にどの反応になるのか予想できなかったので非常に恐ろしい過程でした。意外なことに、友達と学校の先生は問題なく認めてくれました。親も、最初慣れるのは辛かったと思いますけど、数年かけてお互いの考え方を尊敬できるようになって、今は仲が良いです。
時間が経つと、セクシュアリティに対する教え以外にも、カトリックの教えが僕の経験に合わないことに気づいて、カミングアウトしてから1年後ぐらいにカトリックをやめて、他の宗教と文学を勉強し始めました。
その時、「ビート文学」が特に好きになりました。詩の中も人生の中も自分を自由に表現するのがビートの中心なテーマで、まさにずっとしたかったことに感じました。特にLGBTのテーマの詩が多いアレン・ギンズバーグが大好きでした。ギンズバーグは仏教に強く影響を受けられたので、僕も勉強してみて、そのきっかけで8年前来日したわけです。
ギンズバーグの詩で、社会の圧を気にせず、自由に性欲を表現しているテーマも多くあります。カミングアウトしてから僕もこのような生き方をしました。しかし、欲望だけに従って生きても中々満足や自由を感じませんでした。むしろ、抑制から強迫的な耽溺に変わっただけで、どちらも悪循環になってしまっていたように感じました。
お釈迦様の教えでは、苦難の原因は欲だとされています。どの人でも、欲の悪循環に巻き込まれてしまって、一度の人生だけではなく、悟りという本当の自由に触れず何回も死んで何回も生まれるというのは仏教の世界観です。この教えは、性別、セクシュアリティ、国籍、などを問いません。
また、どの人に対しても、無限の救われる方法があるという教えがあります。この宇宙は複雑な場所なので、「ワンサイズ」の仏の修行法はありません。例えば僕は、真言宗の教えを日本で勉強させてもらっている外国人で、香川の男性と婚約しています。中々ない状況ですが、大変なときがあっても、これも仏様に頂いている僕のニーズに合った修行の道だと信じています。
去年の「LGBT理解増進法」について、高野山真言宗の今川宗務総長はこのメッセージを書いてくれました。
________________________________
「悉有仏性」といって、人はみな仏さま になれる素質を持っています。けれども人それぞれ個性があり、得意なことも不得意なこともあります、、、それぞれのいいところを見つけ、相手の立場を尊重する。多様性を認 め合うことから、お互いの信頼が生まれるのです。その社会こそが弘法大師さまが目指されたこの世の極楽浄土「密厳国土」なのです。
________________________________
この最高な多様性のビジョンは密教でお祀りされている曼荼羅にも表現されています。曼荼羅の中には、天使のような仏様も居て、見た目がかなり怪しい仏様や恐ろしい仏様もいます。しかし、曼荼羅の世界はすべて宇宙自体の悟りである大日如来様から平等に生まれて、相互的な愛と尊敬の関係で存在します。
人類の無限の表現も、大日如来の宝冠の宝石のような物だと思います。
「法句経」:お釈迦様はこの言葉を残します。「すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、──これが諸の仏の教えである。」
この仏の道は、誰でもありのままで入ってもいい道です。
Comments